20160318006

去年、亡くなった、わたしと、とても近しい間柄の人(同年代女性)。
ブログをお持ちである。

亡くなる少し前に、そのブログの存在を明かしてくれた。
わたしのブログより、前から続いている、
実写画像をふんだんに貼り、作り事はいっさい無い、きっちりしたレポート色のあるものである。

その人が亡くなった今も、ときどき、そのブログに訪れる。
その人が亡くなる2週間前から、更新はストップし、それ以後は(ご本人によって)更新されることは、決してない。

とても近しい間柄なだけに、どきっとする内容に、ふいに触れると、面食らう。
人の日記は、やはり読むものではないと感じる一瞬である。

ご本人がいない今、複雑な気持ちになる。

が、知ることは、良いことばかりではない。
知らなかったほうが良いこともある。
自分の知っていることだけを知っているほうが良い場合もあり、その段階をあえて超えない選択もある。
知らないことを新たに加えるのは、ハイリスクである。

もちろん、絶句するほど素晴らしい真実が隠されていて、それを今まで知らなかったことに対する後悔もあるだろう。
よくぞ、真実を見つけ出してきたことだと、絶賛するだろう。
が、その逆もある。
知らなければよかったことも、必ずあるはずだ。
プラスとマイナスは、セットになっていて、良いほうだけを切り取って持ち込むことは出来ない。
自分が気分を害したり、憂鬱になる可能性があるというリスクを承知のうえで、
人の深部に入り込むには、自己責任的な覚悟が必要だ。

そう考えると、もう、この世にいない人とは、関係を改善、修復はできないので、
美しい思い出だけを残しておくほうが賢明かと思う。
知らない、もっともっと美しい思い出をさらに知るプラス面よりも、
知らないほうがよかった負の面を知るマイナスのほうが、わたしには大きい。

あまり人の内部には入り込まないほうがよい。
なにごとも、距離はほどほどがよい。

大きな良い面を求めるより、マイナス面を知らないほうが、ダメージが少ない。
ローリスク、ローリターン。守りの境地である。
一攫千金を夢見るかのごとく、ギャンブル的な気持ちはない。
なにもない、平和な一日が過ごせればよい。


わたしは生の世界は、リタイアしたいようだ。
熟成された、美味しい干物になりたい。

有害な化学物質が空気中に飛散する
近年の地球環境に身を置き、知らず知らず蝕まれているからか、
早めに干からびようとしているのか。

あああ、わたしの年齢では、もう完全に30年は早い心境である。